その瞬間を切り撮る

旅とカメラの話題。「いいね」の瞬間を記憶だけではなくデジタルデータに残したい

軽井沢

 

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避暑地のイメージが強い「軽井沢」だが、標高1000mの高原の澄んだ空気と新緑を同時に楽しめる春もなかなかのもの。
クルマで峠を駆け抜けてみたい欲望もあり、「軽井沢」に行ってきた、というお話し。

 

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関東地方と信濃を結ぶ交通の要地であった軽井沢。群馬県と長野県の県境からの展望台から眺めると、人々の行く手を阻むような山々が連なり、昔の人はこれらの峠を越えるのはさぞかし、大変だったんだろうなぁ、としみじみと感じ入るものがある。

 

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すり潰したクルミを砂糖や蕎麦つゆでのばした自家製ダレでいただく「くるみ蕎麦」に初挑戦。くるみ特有の脂肪とそば粉の淡白な味わいがほどよく調和し、ハマる人はハマる味だろうな、というのが感想。僕は、フツーの鰹だしが効いた醬油ダレの方が好き。

 

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西洋的でお洒落な街並みは、軽井沢の歴史そのものだ。国道や鉄道の整備により錆びれてしまった軽井沢の魅力を発見したのは、何と外国人先駆者だった、という事実。

明治時代の1886年、カナダ生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー氏が当地を訪れ、その美しい清澄な自然と気候が故郷の風景と重なり感嘆し、自ら住み着いたことからはじまる。つまり、軽井沢の初期は外国人宣教師やその家族が大半であったというルーツが現在の西洋っぽさの文化形成に繋がっているという訳だ。

彼らの功績はもう一つあり、レタスといった高原野菜の栽培。これらのパイオニアたちは、軽井沢を国際的な避暑地として発展させた上に、地元の農家の人たちに清澄な土地に合った高原野菜(キャベツ・白菜)の栽培法を教えた。これらのキャベツなどは浅間高原の清涼な気候と風土に適していたため、その生産高は年を追う毎に増大し、それまでのヒエ、アワなどの雑穀類生産の細々とした農業から、今日ある高原野菜へと転換していった機会を与えたのであった。

参考:「軽井沢ガイドブック」

karuizawa-kankokyokai.jp

 

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避暑地軽井沢の様相は、大正時代に入ってプリンスホテルといった大資本の開発がはじまり、外国人先駆者たちがつくり上げてきた質素で高潔な避暑地から、日本人的な華やかでお金持ちのための別荘地へと変わった。

言うまでもなく軽井沢の食べ物屋さんは「軽井沢価格」で閉口してしまう。そんななかで、軽井沢で40年以上、洋食を営む「キッチン ハイツ」は新橋の洋食屋さんを彷彿させる味とお値段。大振りのエビフライとヒレカツは大変おいしゅうございました。

 

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この時期、コロナ感染が気がかりなもの。ホテルもこれには工夫を凝らしており、朝食はバスケットでお部屋に届けてくれた。朝からピクニック気分に浸れるという嬉しいサービス。

 

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もう一つの目的だった峠を駆け抜ける楽しさも満喫できた。ルーフトップをオープンにし、のんびりと新緑溢れる峠道を走れる楽しさは格別なもの。海もいいが、山もいいというのが今回の結論。

Enjoy!